02 GLOBAL PERSON

グローバル・パーソン インタビュー Vol.011

自分を信じて挑戦し続け、他者より高い目標を描く

佐々木吉夫さん

佐々木吉夫さん | 福さ屋 株式会社会長

法学部 卒業
[掲載日:2016年06月13日]

貧しい子ども時代。島を豊かにしたいと願った

 戦後70年、先人たちが幾多の苦労をして作り上げた私たちの社会は今、豊かであります。しかし、満たされた世の中はいつまで続くでしょうか。社会状況はデータ改ざん、偽装など信用・信頼の喪失が後を絶たず、その反面、わが国に対する世界の期待は大きいものがあります。中央大学の建学の精神は実地応用の素を養い、社会に実践するものであり、質実剛健であります。若い学生の皆さんには日本の担い手として大きな期待をし、私の82年を羅針盤として心に留めていただければと思います。
 さて皆さん、恵まれ過ぎた幸せは、恵まれない幸せに劣ります。これは、あまりにも幸せに恵まれ過ぎていると、感謝・感動がなくなるという意味です。不足、不満で人を羨み、妬み……すべてが不満に繋がって、これでもかと自分を苦しめます。満足に溺れてしまうからなんですね。
 私の故郷はわが国の最北・北海道の礼文島にあります。私が少年の頃は人口1万3000人ほどで、島の産業は漁業でした。私は網元の三男坊で、貧しいけれども平和に暮らしていました。しかし、戦後、漁業権の制度が改革されると私の家は一介の漁師に転落します。父や兄と一緒に漁に出なければ生活できないようになったんです。漁師の子どもたちは親を手伝うために学校にいけず、教室に子どもがいないので学校が休みになってしまう。そんな貧しい村でした。でも、私は学校に行きたかった。私は子ども心に、「この村で一番偉い村長が悪いから村は貧乏なんだ。だから、俺が村長になる。子どもが安心できる学校を造ろう、いい病院を造ろう」と思っていました。
 皆さんは恵まれているから、生まれた時から信号機を見ているでしょう。島には、9年ほど前に設置されました。人も通らないところに何故、設置するのかと思ったら、街に行った時に困らないように、勉強のために設置したのだと聞きました。私は恵まれていなかったから、信号機に疑問を持つんです。皆さんが当たり前だと思っていることに、疑問を感じるんですね。恵まれていないということは、一方では幸せかもしれません。
 私は「村をよくしたい、村長になるために学校へ行こう」と一大決心をして、親に内緒で連絡船に飛び乗り、姉の嫁入り先に出世払いで居候をしました。姉の元で家の仕事をしながら牛乳配達で600円の収入を得て、授業料を払いながら高校に通っていました。牛乳配達をしていたある吹雪の朝、赤ん坊を育てている母乳が出ないお母さんが、私が届ける1本の牛乳を戸口を空けて待っていました。その後、集金に行った時に赤ん坊を見せてくれて、「こんなに大きくなったよ」と言ってくれたんです。その時に私は、「俺、赤ん坊を育ててるんだ」と思ったんです。牛乳1本を配達しているんじゃない、と。仕事には責任と義務と誇りがあります。私は同級生を見て、「あいつらは親のすねをかじりながら学校へ来ている。でも俺は、赤ん坊を育てながら学校に来ているんだ」と思いました。それまでは惨めで恥ずかしくて「俺だけが何で!」と思っていましたが、それから同級生に会っても何も恥ずかしくなくなりました。
「憧れにすべてを捧げて進む。これぞ、わが戦い」
 少年だった頃、母が教えてくれた言葉です。幸せというものは、山のようにあります。その幸せに手を出して掴む。掴んだら離さない。その掴み続ける努力、忍耐。私はこの言葉を今日までの人生で思い続けております。そして、今を最大限に生きています。

探究心を持って仕事をする。人生は思い入れとこだわりです

 「辛子めんたい 福さ屋」は東京、大阪、北九州に支店がありますが、出発点は博多駅に設けたスーパーマーケット「博多ステーションフード」でした。デパートやスーパーマーケットが7時には閉店していた時代に、朝9時から夜9時まで営業させていました。品物もたっぷりと揃えており、やがて日々何百万と売り上げるように。その後、仕入れた食材を活かすために鮮魚店と食堂を開店させ、刺身や定食などに形を変えて提供していました。このほかに、珈琲店も博多駅にオープン。携帯電話がない時代、「待ち合わせができるように」と店には伝言板、コードレス電話、ファックス、コピー機を備えていました。
 商売は思い入れとこだわりです。自分の仕事を煮詰めていかないと改善はできません。なお、スーパーマーケットの開店資金を返済するために始めたのが、めんたいの販売でした。博多にはめんたいの業者が多いですから、銀座に屋台を出して販売していました。百貨店「三越」の当時の社長がそれを見ていて、三越との取引が開始したんです。
 学生の皆さんはこれから就職するなかで、商売をする方も多いでしょう。そこで、少し資金の作り方の話をしたいと思います。私は40年前、資金があって事業を始めたわけではありませんでした。お金は作るものなんです。親、兄弟、親族など身内から借りるのもダメですよ。自分で作る努力をしなければ、商売は繁盛しません。借りたものは返さなければいけず、気軽に借りれば気軽に使ってしまいます。自分で作ることが大切です。

人生は頭の良し悪しではない。物事に対する探究心と人に対する礼儀が大切

 人の幸せを「100歳で100の幸せ」が人生最高だとするならば、45度で登っていくのが普通です。けれども、それは凡人のやること。私はその道を選びませんでした。80度でも90度でもいい、せめて65歳くらいまでに80歳の幸せに辿り着きたい……。13、14歳になると物心がつき、世の中のことが少しは分かってきます。私は少年の頃からこうした人生設計を考えていました。若いうちは食べて、風呂に入って、ぐっすり寝れば身体が回復しますが、老いるとなかなか難しい。だから、若いうちの苦労は買ってでもしろと人は言います。
 人生には様々なことが起こりますが、私はあまり辛いと思わずに過ごしてきました。辛いと思うと、自分も惨めになってしまいますからね。「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉があります。辛い、苦労をしていると考えると悲しくてやる気がなくなってしまう。ですから、試練を与えられているんだと考えていました。挑戦し続けることは難しいですが、自分を信じるしかない。自分のやりたいことを守り続ける。根性を持たないと、前に進みません。人生は頭の良し悪しではないんです。いいに越したことはありませんが、それよりも、物事に対する粘り強さ、欲望、探究心、工夫が大事です。人間としては、感謝や挨拶、礼儀、責任と義務が大切です。自立するということは、自分のことを自分でするのは当たり前で、他人を思いやり、他人や世の中に迷惑をかけないということ。ごく、当たり前のことです。すべて世の中は自己責任であることを感じてください。そして、仕事に誇りを持って、誠実、勤勉に向き合い、世の中に恩返しをしてください。私も道なかばですが、これからも残りの人生を世の中の恩返しのために頑張っていきたいと思っております。
プロフィール

佐々木吉夫
福さ屋 株式会社会長

北海道・礼文島出身。法学部を卒業。
1957年、社会党参院議員の秘書に就く傍ら、博多駅構内等でスーパーマーケットの運営を開始。
1976年2月に博多ステーションフード株式会社を設立。
翌1977年、福さ屋株式会社として辛子めんたいの本格製造、販売を開始。1985年、議員の引退を期に現職に専念。

前へ

次へ