02 GLOBAL PERSON

グローバル・パーソン メッセージ vol.029

縁と出会いのチカラで中国を駆けめぐる

上野 隆さん | 泰昇工程有限公司(TRE: Total Solution Provider)
社長

中央大学経済学部 国際経済学科 1980年卒業
[掲載日:2013年6月14日]

香港との縁

現在住んでいる香港は、父親の代から縁がある街であり、私の第二の故郷です。

私の父は戦前北京に留学し、北京大学を卒業しました。その後毎日新聞の記者になり一時、特派員として家族で香港に赴任しました。丁度、私が小学校3~4年のころです。お陰で当時英語が話せた訳ではありませんが、その頃から英語に対する恐怖感はありませんでした。

父は中国専門の記者であり、文化大革命当時、中国共産党を批判するような記事は書けず苦労したと聞いています。因みに、両祖父とも中国で医者をやっていましたので家族3代中国とは縁があります。私は、中大附属高校から中央大学に進学しましたが、卒業後は中国で活躍したいと考えるようになったのはきっとそれらの影響だと思います。

上野 隆さん

激動の中国への赴任

卒業後は日本電気株式会社(NEC)に入社しました。中国勤務が希望でしたが、当時のNECには中国部はまだなく、北東アジア部が中国を含んだ香港、台湾、韓国一体を統括しており、希望かなって私はその北東アジア部に配属されました。その後1988年に中国部ができ、私は、奇しくも天安門事件があった1989年6月の翌月に中国部に配属、天安門事件で中国は5~10年は冷え込むとマスコミが予想していましたが、その後の中国ブームが証明したように7月から大忙しの日々でした。

当時はNECの98シリーズがパソコンの代名詞でしたが、COMPACなどの安値攻勢が激化し、価格競争力のあるキュッパチ(98,000円)パソコンを香港・中国で生産するため1994年に、にわか生産管理担当として4年間香港に派遣されました。安い労働力の中国が注目され、工場の中国進出が加速された時代でした。そんな折、私生活でも私は良き香港人の伴侶を得、結婚しました。

当時、ほとんどの専門家は、香港が中国に返還されればやがて政治的には中国化するものの経済的には変わらないと信じていました。

しかし実態は逆でした。返還直後の1998年にタイ危機があり、タイの通貨が大暴落、香港の不動産もわずか一年で半値になりました。一方、中国化が心配された政治は、返還後、中国政府が気を遣ったせいか政治面での目立った問題は発生しませんでした。中国での仕事に油がのった98年の9月、突然の帰任命令、後ろ髪引かれる思いで日本に戻りました。

独立そしてSARSのとの遭遇

中国での活躍を夢見て2002年に45歳になったばかりの時、タイミングよく始まった早期退職制度に真っ先に名乗りを上げ長年お世話になったNECを辞めました。上海に家を買い、そこでIT関係の仕事をしようと思っていたのですが、当時の中国では、ITは時期尚早、人海戦術で間に合うことに程なく気がつきました。

これでは仕事にならないと困っていた時に、泣きっ面に蜂、SARSという死の病が中国――とりわけ、香港・北京を襲いました。SARSは有効な治療法がなく、運悪くかかれば隔離、家族と生き別れになるという恐ろしい病です。4歳になる幼い子供もいたことから日本に一時避難し、下火になってから第二の故郷香港に戻りました。

上海での起業はSARSが来なくても大失敗、主な原因は自分の準備不足でした。香港では猛反省をしてNEC時代の知り合いの会社で起業再チャレンジのための修行を一から始め、2~3年のつもりが居心地よく気がつけば4年が経っており、2007年に満を持して再独立、今度は日本の会社からも出資いただきデータリカバリーの会社を始めました。その日本の会社はカナダの世界最高水準の技術を取り入れており今度こそ成功をと思い2年間頑張ったのですが、こちらも大誤算、香港人はデータに対する執着が薄く諦めが早いうえ、値段が高かったこともあり、引き合いばかりで受注はほぼゼロ、幸い香港で良いパートナー会社が見つかったのでなけなしのお金で清算・引継ぎ手続きをして、事業をその会社に譲ることにしました。今度も準備不足・市場調査の甘さ、安くない授業料で貴重なことを学びました。

香港におけるシステム屋の勝機

もはやこれまでかと思いきや捨てる神あれば…タイミングを計ったかのように、以前修行していた香港会社の創業社長が急に体調を崩され「会社を引き継ぐか?」とのお話が。当時、創業社長も60歳手前で私とそれほど歳も離れていなかったため、勤めていた時にはお互い会社を引き継ぐことなど夢にも考えていませんでした。修行といっても経営を学びたい一心で4年間ダイレクター(役員)をしていたこともあり、会社についてはある程度以上わかっていました。人生何が起こるかわかりません。そんなわけで2010年に今のTREを引き継ぎました。現在は香港36名、昨年よりグループ化した中国現法16名の社員と共に、香港の日系企業を対象に、マルチ言語(日本語、英語、中国語)の人事、経理、生産管理システムを販売しています。

TREでは、お客さんの要望に合ったシステムを設計、構築導入し、保守することが主な仕事です。お蔭様で大手から中小まで180ほどのクライアントを持っています。

日本人はいい意味でも悪い意味でも細部に妥協しないので、きちんとしたシステムでないと納得いただけません。そしてそこに、香港における日系企業を対象としたシステム屋の勝機があります。中国のお膝元である香港の地域的特徴で、大企業の出先であっても日系企業は少数精鋭で100名以上の規模という会社はほとんどありません。規模は小さくても――本社が大企業という例も多く――ITのニーズは高度で、セキュリティーにはかなり敏感です。(ご予算は中小企業並みでも)大企業並みのニーズに合うシステム構築をするという市場環境に鍛えられている毎日です。

後輩たちへのメッセージ

大学時代の思い出といえば、いいゼミに入れたこと――国際経済の斎藤優先生に師事し、国際的な活躍をするにあたっての考え方を学びました。マーケティングは実践勝負ですから、自ら働きかけ挑戦する姿勢も斉藤先生の生き様から学びました。

今の日本の学生さんは、海外に関して少し食わず嫌いではないかと思います。香港は、安全面では日本とあまり変わりませんが、チャンスに溢れています。逆をいえばチャンスを追い求めればピンチも比例して訪れますが…。中国との島の問題についても――香港で反日感情など日々の生活で感じることはありません。私も上海や広州にはよく行きますが、市民レベルで見ると日本への反発は商業都市ではそれほど感じません。(政治が中心の都市では若干趣が違うとも聞いていますが…。)

香港に限らず、まずは、日本から出てみることだと思います。そうすれば、見えてくることがきっとあるはずです。

中央大学は公務員になる人が4人に1人、これを弱みと考える傾向はありますが、海外に住む我々から見るとある意味でチャンスではないかとさえ映ります。現在、日本に足りないのは真にリーダシップを取れる政治家や優秀な実務家たる公務員の存在ではないでしょうか。香港には軍隊がないという特殊事情はありますが、毎年のように税金が返金されてくるほどシビルサーバント(公務員)の効率のいい都市です。また香港はレッセフェール(自由放任)・自己責任といわれながらも、私の香港人の義理の父母は、老後の医療や介護に全く不安を感じていません。公立の医療は馬鹿みたいに安く、いざとなったらインドネシアやフィリピンの出稼ぎのメイドが泊まりこみで介護してくれる環境でもあります。大学もわずか8校しかありませんが、世界の大学ランキングベスト200に必ずその半分の4校が入ります。シンガポールなども別の意味でいろいろと優れた点があると聞いています。後輩の方々ばかりでなく、大学自身も――例えば香港の公務員制度の良い点を学ぶような交換プログラムを、国をまたいで作るなど、現在のニーズにマッチしていて面白いかもしれません。

神風はきっと吹く

TRE社名ロゴプレート

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アベノミクス後の最近の日本について、香港人ばかりでなく外国人は疑心暗鬼で、「日本の中長期の将来についてわれわれは正直楽観していないがあなたの意見は?」と聞かれることが最近あります。

そうした時、私は「日本は奇跡を起こそうとしていると思う」と答えるようにしています。ガラパゴスに長く甘んじた日本――確かには傍目にちょっとやそっとでは変わるように見えない。しかし必死になれば、真剣になれば神風は吹く、奇跡は起こるかもしれない。要は覚悟次第、少なくとも覚悟のないところに決して奇跡は起こらないと私は思います。

プロフィール

上野 隆(うえの・たかし)
1957年生まれ。中央大学附属中学校卒業後、中央大学経済学部国際経済学科を1980年に卒業し、日本電気株式会社(NEC)に入社。北東アジア部、中国部を経て2002年に退職。その後起業に再三挑戦挫折を繰り返した末、2010年より現在の泰昇工程有限公司(TRE: Total Solution Provider)を引き継ぎ、代表取締役社長として現在に至る。

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