05 REPORT

【中央大学パシフィックオフィス開所式】ワークショップ「中央大学文学部森茂岳雄教授講演」

2014年03月17日

森茂岳雄文学部教授

ハワイに初めて日本人がやってきたのは約150年前のことです。そこから長い長い歴史を築きました。今日は「グローバル人材のパイオニア」である我々の先輩方・日系人について少しお話し、そこからどんなことが学べるのかについて考えてみたいと思います。

なぜハワイには日系人が多いのか?

官約移民時代の日本人女性労働者

官約移民時代の日本人女性労働者

現在、ハワイ州の人口の14%近くを日系人が占めています。ではなぜ、ハワイに多くの日系人が暮らしているのでしょうか?

ハワイに初めて日本人移住者が渡ったのは1868年のことです。153人がサトウキビ農園の労働者として働きました。明治元年のことでしたので、彼らは「元年者」と呼ばれました。サトウキビの葉で屋根をふき、粗末な家を作って暮らしていました。その多くは現地のハワイアンと結婚し、家族を築きました。

その後、アメリカで砂糖の需要が高まり、ハワイに大規模なサトウキビ農園がたくさん作られました。労働力の不足から、1881年にハワイ国王のカラカウアが来日し、明治政府に対してもっと日本から移民を送ってほしいとの依頼をしました。これを受けて、1885年には日布移民条約が結ばれ、政府公認の官約移民として1930人がハワイへ渡りました。その後、1894年の官約移民制度廃止まで26船、約3万人がハワイへ渡りました。

ここからグローバル人材の資質として学べることは、日本人のフロンティア精神、そして未知への勇気と決断力です。

では、なぜ移民が禁止に?

エリス島に到着した写真花嫁(1920年)

エリス島に到着した写真花嫁(1920年)

日本人がたくさんハワイへ移民として渡ってきたことで、19世紀末には、日本人に多くの仕事を奪われてしまうのではないかという危機感が現地で生まれました。これによって日本人の排斥が行われ、ハワイやアメリカへの帰化ができなくなりました。さらに、1913年には「外国人土地法」が制定され、日本人は土地を所有できなくなりました。とはいえ、簡単には日本に帰国できないので、独身の移民者たちは、「写真花嫁」といって、日本から写真1枚を送ってもらい、それを頼りにお見合いをし、結婚を決めました。そうして、たくさんの人たちが、1924年に排日移民法が制定され日本からの移民が全面的に禁止されるまで、ハワイへ移住したのです。

オアフ島エワ耕地日本人小学校

オアフ島エワ耕地日本人小学校

まず日本人は、子どもたちのために日本語学校を作りました。ずっとアメリカにいる日系二世は、日本語が話せなくなってしまうので、日系一世の人たちは日本語学校を作って、二世のために日本語教育をしました。このような中で、ハワイでは徐々に日系二世人口が増えていきました。1940年には日系二世がハワイの日本人人口の60パーセントを占めるまでになりました。彼らは、日本とアメリカ双方の影響を受け、日系コミュニティはどんどん成長していったのです。 

ここから学べることは、日系人の逆境に立ち向かう力、日本語を大切にする精神、2つの文化を生きる力です。こうした中にグローバル人材のプロトタイプのようなものが見えるのではないかと思います。

第2次世界大戦中、日本人はどのような生活を送ったのか?

皆さん、パールハーバーには行きましたか? 1941年12月8日(アメリカ時間7日朝)に日本軍はパールハーバーを攻撃しました。これによって、1291人の日系人指導者が拘束され、736人の日系人がFBIに逮捕されました。1942年には、大統領行政命令9066号が出され、約12万人の日系人が強制収容されました。同じ敵国であったドイツ系やイタリア系の人々に対しては強制収容がなかったので、アメリカのアジア人に対する人種差別が背景にあったといわれています。さらに強制収容された多くが日系二世でアメリカの市民権を持っていました。それなのに、いきなり強制立ち退きを強いられ、タグ(名前の代わりに数字を書いた紙)を貼られて、48時間以内に両手に持てるものだけを持って、強制収容所に送られるという悲劇を経験したのです。6メートル四方の部屋に1家族が入れられ、収容所の周りには有刺鉄線が張られて常に監視されていました。 

このような厳しい状況を打開すべく、日系人は様々な形で努力をしました。それによって次第にアメリカ人の中での日系人への認識が変化していったのです。中でも、象徴的なのが442部隊です。これは自らアメリカ軍に志願し、アメリカ人としてヨーロッパ戦線で戦った日系人部隊です。アメリカの陸軍史上最もたくさんの勲章をもらった部隊でもあります。これとは対照的に、強制収容の違憲性に対する人権や正義のための戦いという別の形で愛国心を示そうとした日本人もいました。

ここで学べることは、日系人のアメリカへの忠誠心、人権や正義のために戦う力です。

戦争が終わって日系人はどのような問題に直面したか?

荒廃した日系人の住居

荒廃した日系人の住居

戦後、強制収容所から戻ってきた日系人は、荒廃した家と生計の立て直しを図りました。強制収容所での経験は恥ずべきこととして沈黙を守り、白人社会への同化を進めました。そのため、アメリカ人たちの間では「模範的マイノリティ」と呼ばれました。 

このような中、ようやく1952年に、ウオルター・マッカラン法が制定され、日系一世の帰化が可能になりました。1962年には、ハワイ島出身のダニエル・イノウエが日系人として初めて上院議員になりました。彼は、民主党の最古参で、大統領継承権第3位。442部隊でも戦って右腕を失いました。それから、1972年にはジョージ・アリヨシが日系人として初めてハワイ州の知事になっています。このように、日系人は経済的にも政治的にも非常に目覚ましい活躍を遂げました。

ここから学べることは、逆境から立ち直る力、そしてリーダーシップです。

戦後、日系人はどのような社会運動を展開したか?

レーガン大統領による「市民的自由法」への署名

レーガン大統領による「市民的自由法」への署名

1960年~70年代にかけて、アメリカでは公民権運動や黒人解放運動が盛んになってきました。それまで黙っていた日系人たちも、戦時中の強制収容に対する謝罪と損害賠償を求める運動を展開しました。1981年には、「戦時民間人転住・収容に関する委員会」による最初の公聴会が行われ、強制収容された日系人550人が証言に立ちました。 

結果、日系人の強制収容は人種偏見であり、戦時の狂乱、政治指導の過ちによって行われたことをアメリカが認めました。1988年にはレーガン大統領が市民的自由法に署名し、大戦中に強制収容にあった人たちに対して謝罪と1人2万ドルの補償金が支払われました。そうした中で日系人の信頼は回復していったのです。

ここから学べることは、自由や正義を求める心、粘り強く戦う力、連帯する力です。 

日系人の今とこれから

オアフ島の盆ダンス

オアフ島の盆ダンス

戦後の荒廃の中でゼロから出発した日系人ですが、犠牲を伴う努力の中で、現在は社会的、経済的にも評価され、成功したマイノリティともいわれています。良い伝統を残しながら、絶えず革新を続けているのです。私はよく夏にハワイに来るのですが、7月~8月には土日になるとあちこちの神社やお寺の境内で盆踊りが行われています。そこには日系人だけでなく、アフリカ系、ヨーロッパ系の人など様々な人たちが一緒になって加わっています。今、ハワイはいろいろな国の文化が溶けあって、独自のロコカルチャーを形成しています。文化のハイブリッド化や多様なアイデンティティも日系人を特色づける大きな要因となっています。 

では、アメリカではこれまでにどのような日系人が活躍したのでしょうか。まずは、アジア系で初めて女性上院議員になったパッツイ・ミンク・タケモト。ワッツ・ミカサは、今から50年前に活躍した日本のプロバスケット選手です。サンノゼ出身のノーマン・ミネタはブッシュ政権時の商務長官、クリントン政権時の運輸大臣で、日系人で初めて2つの政権で大臣になった方です。また、ジョージ・タケイは有名な映画俳優で、スタートレックに出演しています。エリソン・オニヅカは初めて日系人として宇宙飛行士になった方ですが、チャレンジャー号に搭乗して、爆発により亡くなってしまいました。ロスには彼の名前のついたストリートもあります。そして、クリスティー・ヤマグチ。アルベールビルオリンピックの金メダリストです。エリック・シンセキは日系人で初めてアメリカ陸軍大将を務めました。

ここで紹介したのはほんのごく一部です。日本とアメリカの懸け橋として、もっとたくさんの日系人が活躍しています。今日は150年分の話を簡単に紹介しましたが、こうした先輩方がいたのだということをぜひ頭に入れてほしいと思います。皆さんにも、彼らに続いて日本とアメリカ両国をつなぎ、活躍できるような人材になってもらいたいと思います。

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