02 GLOBAL PERSON

グローバル・パーソン メッセージ vol.017

日米の物の見方や考え方の違いを調整し 互いの利益の着地点を見つけることに尽力

加藤 芳洋さん | 弁護士

中央大学法学部 政治学科 1989年卒業
[掲載日:2013年4月1日]

日本企業の米国進出や事業展開を法律面から支援

米国人のパートナーと

米国人のパートナーと

渡米して20年。私は現在、アメリカの首都、ワシントンDCで弁護士として働いています。ひと言でいえば、日本企業の米国進出や事業展開を法律面から支援するのが仕事ですが、アメリカ人のものの見方、考え方についての理解を日本のクライアントと共有し、何をどう伝えるか、検討や交渉を重ね、相手方との合意を形成していく作業の繰り返しが日常です。

人種の坩堝といわれる米国で、「アメリカ人は・・・」といっても十把一絡げにはできませんが、「我々日本人は・・・」と語るのと同様に、アメリカ人にはアメリカ人らしい物事の受け止め方があります。ですから、もっともやりがいを感じる瞬間というのは、日米のものの見方、考え方の違いを上手く整理・調整し、ここで合意することがお互いの利益だといえる地点を見つけることができた時です。もちろん、常に上手くいくとは限りません。米国側の説得に失敗することもあれば、日本側の理解を得られずに終わることもあります。ただ、韓国勢や中国勢が存在感を増す米国市場で、日本の強味や美点を地道に伝えていくことに、全力を尽くすことが米国で弁護士をすることの意義だと思っています。

ゼミが機縁で渡米を思い立つ

私が中央大学に学んだ1985年から1989年の4年間は、日本経済の「バブル期」にあたり、日経平均株価は3万円を超え、地価も高騰、入学当時1ドル250円前後だった円が120円台をつけて、それを『急激な円高』と呼んだ時代でした。専攻した国際政治でいえば、米国とソ連を頂点とする東西2陣営と第3世界と呼ばれたアジア・アフリカ諸国という世界像があり、財政赤字・貿易赤字の双子の赤字に苦しむ米国を好景気に沸く日本がある種の優越感を持って見ていた時代でした。改めて振り返れば、自分の生きる「今」という時代、世界、社会をその当事者(社会人という意味ですが)としてではなく、一歩離れた目線で眺めることが許された時間だったと思います。

もとより多くは机上の話で、即実用に供するようなものではありませんでしたが、毎日のように紙面を賑わせていた日米通商問題に関わりたいと渡米を思い立ったのも学生時代のゼミが機縁で、卒業して4半世紀、当時学んだ日本と米国の関係が変化していくのを実感しながらアメリカで働いています。

海外にいるからこそ見える日本がある

海外にいる日本人の大多数は何らかの形で日本と関わる仕事に就いています。私もそのひとりですが、海外にいるからこそ見える日本があり、その意味では、皆さんが海外に飛び出しても、日本との関わりは切っても切れず、むしろ国内で働くよりも一層日本を意識する機会が増えることでしょう。欧米はもとより、今なら中国、インドでも、中東、ロシアでも、行ってみるか! という中大生が増えることを期待しています。それが片道になるか、短期の往復になるかはやってみなければわかりませんが、そうした挑戦に思いを馳せる特権は、学生時代を境に少しずつ失われていくものです。

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