02 GLOBAL PERSON

グローバル・パーソン メッセージ vol.007

国連機関等での現場経験を経て自ら国際協力NGOを組織

田中 洋人さん | 特定非営利活動法人JADE-緊急開発支援機構
理事長

中央大学法学部 政治学科 1989年卒業
[掲載日:2013年4月1日]

アフリカで過ごした1年が国際協力に携わるきっかけに

テントの我が家 タンザニアのルワンダ難民支援

テントの我が家 タンザニアのルワンダ難民支援

これまで国際協力の分野で20年以上仕事をしてきましたが、大学3年の1987年、アフリカで1年を過ごしたことが大きなきっかけになりました。

幼少を海外で過ごし、国際的分野に興味があって、1年の教養ゼミでは国際政治を履修しました。同時に、勉強だけではなく海外でも何かできないかと模索していました。そんな2年の86年の春、夕刊に「アフリカの難民キャンプで井戸掘りボランティア募集」という記事を見つけ、「これだ!」という思いで応募しました。最年少の19歳で選ばれ、夏休み返上で井戸掘り研修に参加しました。その後、翌87年には2次派遣5人中の1人として、アフリカ南部の内陸国ザンビアに向かいました。まだ寒い、成人式直後のころです。

アンゴラとの国境沿いにある難民キャンプは、首都ルサカから車で北西に10時間、文明と隔絶されたジャングルの中にありました。そこが井戸掘りの現場です。日本からの情報といえば電波状態が良いと聞ける短波ラジオの日本語放送ニュースか、1カ月以上かかって届く手紙だけでした。キャンプの外へは週1回、1時間離れた州都への物資補給に出かけました。補給といっても南アによる経済制裁下、インド人が経営する町で唯一のコンビニの半分もない雑貨屋で手に入るものは、入手経路不明のブラジル製コンビーフか、ザンビアでひとつだけ作られている気の抜けたビールぐらいでした。

訪ねてくるお客さんといえば、このビールを飲みに来るイギリス人女性ボランティアか、深夜に町の病院まで急患の緊急輸送を頼みに来る難民の看護師でした。重篤の難民を幾度も病院まで運んだことを憶えています。トラックのエンジン音だけが周囲にこだまする静謐な満天の星の下、ヘッドライトに照らされ光る野生動物のたくさんの目。生と死が交錯する不思議な光景でした。

食糧は警備のザンビア兵と物々交換し、たまのご馳走となる鶏は近所の難民の子どもと追っかけて捕まえました。パパイヤ、マンゴーは木からもいで食べました。娯楽もなく、朝の炭火起こしから始まる不便な生活でしたが、充実していて「生きる」ということを体験する日々でした。

ボランティアの後は各国をヒッチハイクで廻りました。定期運行のバスなどなく、トラックの荷台に乗れるのはましでした。内戦中のモザンビークへは動く軍用列車に飛び乗り文字通り「潜入」しました。ブルンディではクーデターで足止めされ、モザンビークでは地雷原に入りかけ、ジンバブエでは強盗に襲われました。ザンビアでは宿もない町の場末のバーの、ザイールからの出稼ぎ女性の犬小屋のような部屋にビールをおごり泊めてもいました。毎日、信じられない体験の連続でした。

出発前の専門ゼミの面接で、担当の国際政治の滝田賢治教授にボランティアでアフリカに行くことを伝えたら、出席の代わりに毎月のレポートで単位を認めてもらえました。「レポート」とはいうものの、その月の体験記程度だったと思います。それでも、どこからか飛来する国籍不明のミグ戦闘機、着の身着のまま続々と到着する難民、何もできない現地政府、新しいキャンプでの井戸についての国連とのやり取りをロウソクの灯りを頼りに必死に書きました。もちろん手書きです。送信もEメールなどなく、郵便でした。旅先でも毎月書きました。幸い、全部届いていたそうです。無事、単位をいただけました。

スリランカで内戦後の復興支援に従事

難民キャンプで井戸掘りの足場を組む(ザンビア1987年)

難民キャンプで井戸掘りの足場を組む(ザンビア1987年)

帰国後は大学間の国際関係のセミナーや勉強会に参加して、アフリカでの経験を他大学の学生と共有でき、この経験を見直す良い機会になりました。

卒業後は全国紙の記者として就職しました。奨学金を得たのを期に退社してロンドン大の大学院で開発学を学びました。その後は国連を始めとした国際機関等で多くの緊急援助と復興開発支援に携わりました。ルワンダ、バングラデシュ、コソボ、東ティモール、アフガニスタン、パキスタン、コンゴ等多くの現場を経験しました。現在は特定非営利活動法人JADE-緊急開発支援機構を立ち上げ、スリランカで内戦後の復興支援に従事しています。

「たたけよさらば開かれん」という言葉が聖書にあります。私はクリスチャンではありませんが、道は必ず開くと信じています。多くの失敗もしました。しかし、何もしないより、失敗してもそこから学ぶ方が良いと思っています。

学生時代は自由で、無限の可能性があり、何にでも挑戦できました。生かすのは自分次第です。こうした場と機会を与えてくれた大学、教授の方々に改めて感謝したいと思います。

「扉は眼前にある。その扉をたたくのは君だ」

一生に一度しかないチャンスを生かしてください。

ヒッチハイクでトラックの荷台に乗って移動。直後、地雷原に迷いかける(モザンビー1987年)

ヒッチハイクでトラックの荷台に乗って移動。直後、地雷原に迷いかける(モザンビー1987年)

国連代表として武装解除についてアフガン国防軍、国連PKOと話し合う(アフガニスタン2004年)

国連代表として武装解除についてアフガン国防軍、国連PKOと話し合う(アフガニスタン2004年)

津波の被災女性からのニーズの聞き取り(ニコバル諸島2005年)

津波の被災女性からのニーズの聞き取り(ニコバル諸島2005年)

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